しんてん

 料理研究家・引頭佐知さんが広告代理店に勤めていた若かりし頃、昼休みにいつも美しいハーモニーを聴かせてくれる2人の同僚がいた。1973年、その”川口っち”と”星のっち”は「星と川」として自主制作でわずか50枚のレコードを作り、「しんてん=親展」と名付けて親しい人たちに配布。プロデビューすることもなく、3人はそれぞれ別の方向に転職していった。
 それから37年後の、2010年。
 新宿の中古レコードショップで「しんてん」を手に入れた若者がいた。
 このアルバムを一人で聴くなんてもったいない、と彼は大感激。なんと面識もない2人に連絡をとって、自ら「復刻」を申し出るのである。いや一口に復刻といってもその面倒な手間暇を思えば、自分のことでもないのに嘆息が出るじゃないですか。 
 今回そのCDを聴く機会があったのだが、確かにあの時代の音である。
 誰もがマイ・ギターを手に歌っていた時代が、そう隠居にもございました。
 かの若者が「復刻」のために立ち上げたBranco Labelは「いま聴かれるべき過去の作品を地道に再発していくインディレーベル」として今も活動していて、そこが出した『和ンダーグラウンド・レコードガイドブック』を買おうか買うまいか、うーん悩んでるんですよねえ。何やら凄い本らしいですよ。

宿無し弘文

 スティーブ・ジョブズが禅に傾倒していたことは聞いていたが、「誰に」というところまでは知らなかった。新聞の読書欄で出会った、柳田由紀子さんの『宿無し弘文』こと、乙川弘文である。

 京大大学院で仏教研究を修めた超インテリ、国際布教師としてアメリカ・カリフォルニアへ赴きそこで20歳のジョブズと出会う、と書けば天才同士の美しき遭遇を思い浮かべたくなるが、ジョブズが実に嫌な奴だったと語られるのと呼応するように、弘文さんも、剃髪はせず時間も約束もおかまいなし、金にも女にもいたってルーズな生活不適応者まがいの人物だったと聞けば、思わず耳を欹てたくなるというものだ。

 しかしそれなのに、それでもなお、人に愛され続ける彼の人となりを知れば知るほど、ゴシップ的興味から離れ、人の有りようの不可思議さに心打たれることになる。
 享年64歳。訪れたスイスの湖で、溺れる愛娘を助けようとして共に亡くなったのだという。そしてそれすらもまた弘文らしい、と言われる人なのだ。
 寅さんの何がいいのかまるでわからなかった隠居には、やはり弘文さんも受け入れがたい。しかしそれは自分の "どうしやうもない部分" を認めたくなかったからなのかもしれない。と古希を目の前にしてようやく思えるようになった自分に気づくのも、悪くはない。合掌。