誤作動する脳

 陽射しの中、年配の女性がやわらかく微笑んでいる。その写真の上に「時間感覚 失われても」というタイトル。ああまた認知症の記事か、と申し訳ないが瞬時にスルーしようとする。たぶん自分に思い当たるのが嫌で、脳が避けているんだろう。

 写真の人は、朝刊の ”オピニオン&フォーラム”で紹介された「レビー小体病当事者」の樋口直美さんである。「当事者」って久しぶりに聞いた言葉だ。そういえば『当事者研究』という本を2冊買って途中で放っていたなと思い出す。

 翌日、そのインタビュー記事をちゃんと読み直して、驚愕した。

 夜、マンションの駐車場に車を停めると、右隣の助手席に女性が座っている。

「本物の人に見えるのに、驚くと一瞬で消える」

 って、ど、どういうこと? 

 それが「レビー小体型認知症」の典型的な幻視なのだという。幽霊だと思ってお祓いに行く人もいるそうな。「私は頭がおかしくなってしまったのかと恐怖を感じました」。という恐怖がこちらにもストレートに伝染する。39歳で異変が始まり、「うつ病」の薬で別人のようになり、50歳にしてようやく正しい診断名がついた。 

 これは読まなきゃ、とすぐさまアマゾンに飛んだが、著書2冊ともに金額表示がない。中古の値段もはねあがっている。『誤作動する脳』という本は去年出たばかりなのに、すでに楽天でも「ご注文できない商品」と化していて、記事を読んで驚いたのは自分だけではなかったようだ。

 日々できないことが増すばかりの隠居には、自分がただポンコツになったのだという認識しかなかったが、「脳の誤作動」などというものがあるのだと知るだけでも、自分への向き合い方が変わってくる。何としても読んでみたい。

 ダメモトで注文してみる。

 

 その本がようやく届いた。

 思うようにならない体調と向き合いながら、丁寧に紡がれたものだろう、文章が実に読みやすい。のだが、平易な文章とあまりにも重い内容とのギャップに、しばらく船酔いのような浮遊感が抜けない。

 深い珈琲の香り、香ばしい蕎麦茶、ああもうすぐパンが焼ける。

 わが隠遁生活を彩るこれらの匂いが、味が、あたりまえに知覚できることの喜び。

 その幸福感に、衝撃を受ける。何でもない日常がいかに高度な脳の活動で支えられているのかを思い知るのである。 

 いや、これはまさに”当事者”から届けられた、驚異のレポートというしかない。